写真:二天門

本瓦葺き切妻造りの八脚門。この門をくぐるとすぐに本堂に至る。

二天門にてんもん

朱も鮮やかな浅草寺の東門・国の重要文化財

本堂の東に建つ朱塗りの門で、今の門は慶安2年(1649)に浅草寺の東門として創建された。当初は随身門といわれ、豊岩間戸命、櫛岩間戸命を守護神像(随身像)として左右に祀っていた。
 明治17年(1884)、神仏分離によって随身門に安置されていた随身像は、浅草神社に遷座されて、鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天と持国天の像が奉納された。このとき名称を随身門から二天門と改めた。この二天の像は、昭和20年(1945)に修理先で戦災にあって惜しくも焼失し、現在の持国・増長の二天像は、昭和32年(1957)に上野・寛永寺の厳有院(四代将軍徳川家綱霊廟)から拝領した像。門に向かって右が持国天、左が増長天である。
 二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、国の重要文化財に指定されている。平成22年(2010)に改修を終え、創建当初の鮮やかな姿によみがえった。

建立 元和4年(1618)に建立、当初は境内にあった東照宮の随身門であった(建立年月については諸説あり)。
同じく元和4年(1618)に造営された「東照宮」は寛永8年(1631)と同19年(1642)の二度の炎上後、江戸城内紅葉山に遷座された。
現在の門は、平成19年(2007)から21年(2009)にかけて大修復が為され、慶安2年(1649)建立当時の姿を取り戻した。
様式 本瓦葺 切妻造り木造朱塗り八脚門
二天像 写真:増長天(左)と持国天(右)
増長天(左)・持国天(右)(江戸時代前期・吉田兵部藤房作・都重宝)
持国天と増長天は、四天王に数えられる仏さまである。四天王は仏教の守護神であることから武装した姿に造られる。増長天は南方、持国天は東方を守護するとされ、仏舎利を収める仏塔やお釈迦さまの周囲に安置される例が多い。
向かって左の増長天は、右手に法具を掲げ、左手は腰にあてる。右の持国天は、増長天と対称的な姿勢を取り、左手を上げて密教法具を持ち、右手を腰にあてる姿勢を取る。元来は全身に華やかな彩色が施されており、今でも顔や鎧(よろい)に古来の鮮やかさが残されている。どちらも「寄木造(よせぎづくり)」という、鎌倉時代以降に流行した複数の木材を組み合わせる技術で造られている。
「二天門」額 写真:薬師堂太政大臣 三条実美(さんじょうさねとみ)(1837-91)筆 明治16年(1883)2月1日。
この年より「二天門」と称されている。

 

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