写真:雷門

大提灯は高さ3.9m、幅3.3mで、重さは約700kgある。

雷門(風雷神門)かみなりもん(ふうらいじんもん)

風神・雷神が守護する浅草寺の総門

「雷門」と書かれた赤い大提灯。浅草のシンボル・雷門の前は、記念写真におさまる国内外の人びとでいつも賑わっている。
 雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風雷神門」という。その創建年代は詳らかではないが、平公雅が天慶5年(942)に堂塔伽藍を一新した際、総門を駒形に建立したと伝わる。

写真:雷門

慶安2年(1649)に徳川家光が諸堂を再建したときの雷門。御遷座の行列が本堂に向かって進む(「慶安縁起」)。

写真:雷門 天井

提灯の底に施されている龍の彫刻。

 風雷神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることに由来する。総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられている。風神と雷神は名のとおり風雨を司る神であり、風水害を除け、伽藍を鎮護するために祀られた。同時に、風雨順時と五穀豊穣の祈りも込められている。
 風雷神門がなぜ「雷門」と呼ばれるようになったかは不明であるが、文化年間(1804~18)の川柳に、「風の神雷門に 居候」という句が見え、この頃には雷門という名称が一般化していたようである。
 雷門は創建以来、幾度も焼失と再建を繰り返している。寛永12年(1635)に建立された門が同19年(1642)に焼失したのち、徳川三代将軍家光の発願により慶安2年(1649)に再建。旧来の門を上回る美観を呈した。しかし、この慶安の雷門は明和4年(1767)に駒形町からの失火で焼失。やがて寛政7年(1795)に再建され、この頃から提灯の奉納が行われるようになった。寛政の雷門は、歌川広重、渓斎英泉、歌川豊国、魚屋北渓など浮世絵師の好画題となり、今に作品が伝えられている。しかし、幕末の慶応元年(1865)、浅草田原町からの失火により雷門まで延焼してしまう。
 この慶応の焼失より実に95年間も雷門は再建されなかった。現在の門は、昭和35年(1960)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建された。当時、松下氏は関節痛を患っていたが、それを聞いた当山中興第24世清水谷恭順貫首がご本尊に祈願したところ快復し、その御礼の意を込めて松下氏個人で寄進されたものである。江戸時代の様式を生かした造りであり、堂々たる風格を漂わせている。
 慶応の火災の際、風神、雷神像は頭部のみ難を逃れ、明治7年(1874)に身体部分を補った。昭和35年の雷門再建の際に、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意により、補修・彩色されたのが現在の像である。
 また、雷門の北の間(風雷神像の背後)に安置されている天龍像と金龍像は、水を司る龍神であり、浅草寺の護法善神である。昭和53年(1978)、松下グループ有志の寄進で、両像は平櫛田中、菅原安男両氏の作である。

様式 本瓦葺 切妻造り八脚門 鉄筋コンクリート 合成樹脂塗装
建坪 69.3m2(21坪)・間口 11.4m・高さ 11.7m
炎上史 [1]寛永19年(1642)2月19日焼失、慶安2年(1649)12月落慶
[2]明和4年(1767)4月9日焼失、寛政7年(1795)3月落慶
[3]慶応元年(1865)12月12日、田原町大火により焼失
現在 昭和35年(1960)5月1日 95年ぶりに再建
昭和57年(1982)4月17日 塗り替え工事完成
平成25年(2013)11月18日 塗り替え工事完成
風神・雷神像 写真:風神・雷神像 慶応の大火により頭部を残して焼失
明治7年(1874) 塩川運玉氏により補刻 風神 高さ2.18m、雷神 高さ2.09m
昭和35年(1960) 森大造・萩原雅春氏により修補彩色
風神・雷神は、風や雷をつかさどる神さまであり、浅草寺の護法善神である。元々雷門はこの二神の名前から「風雷神門」と呼ばれていたが、いつの頃からか雷門とだけ呼ばれるようになった。
龍神像
龍神像
昭和53年(1978)3月 松下グループ有志により寄進
天龍 高さ 2.93m・重さ 250kg(男性の姿)
金龍 高さ 2.74m・重さ 200kg(女性の姿)
両像は平櫛田中、菅原安男両氏により謹刻。木曾檜造り。雷門の背面、風神・雷神と対称となるように奉安されている。
提灯 高さ3.9m・幅3.3m・重さ700kg
令和2年(2020)4月 掛け換え(6回目)
「金龍山」額 京都・曼殊院門跡の良尚法親王筆の模写

新奥山 本堂 二天門 お水舎 弁天山 影向堂 銭塚地蔵堂 薬師堂 淡島堂 宝蔵門 五重塔 伝法院 仲見世 雷門 鎮護堂