こちらは浅草寺境内の諸碑をご紹介しています。
今回ご紹介の碑
場所浅草寺福祉会館と浅草神社の間
菅沼定敬(すがぬま さだゆき ?~1851)は、江戸時代後期の幕臣で歌人。天保9年(1838)の七夕一夜で百首の歌を詠み、『七夕百首』を著すなど多作の人であった。この碑には、「敷島の みちにはせきも あらなくに などてこヽ(こ)ろの とほらざる覧(らん)」とある。冒頭の「敷島」とは日本の古号の一つで、「敷島のみち」とは「和歌の道(歌道)」を意味する。この歌は、「和歌の道には(実際の道のように)関が無いのだから、(私の)心持ちが通らないことはないであろう」と詠める。 なおこの碑は、江戸時代の有名な石工の大窪世祥(おおくぼ せしょう)が、嘉永3年(1850)に彫ったものである。他にも世祥の金石は三基境内に残されており、石工たちにとっても浅草寺は貴重な活躍の場であったことを思わせる。 ~是非ご参観下さい。
3 旧五重塔跡 現在、五重塔は境内の西側に建立されているが、かつてはその反対側に位置していた。現在は、「旧五重塔跡」と記された石碑が跡地に建っている。 浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)による創建以後、いく度か炎上するもその都度再建されている。昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により惜しくも焼失した国宝旧五重塔(高さ33メートル)は、江戸時代の慶安元年(1648)、第三代将軍徳川家光(1604~51)により建立され、かつては歌川広重(うたがわひろしげ)・歌川国芳(くによし)などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られていた。